「知覚の因果説」の問題~『英米哲学入門』(読書日記2018/04/11)

今日読んだ本は、

  • 英米哲学入門

です。最近はこの本を少しづつ読んでいます。

今回「面白い」とおもった箇所を紹介します。

p.51

そこに蚊が見えるじゃない、って言ったら負けだよ。「蚊が見える」といった時点で、それは視覚内容、つまり観念のことを指していることになって、観念とは区別された(中略)本物の対象のことを指していないことになってしまうからだ。あるいは、百歩譲って、もし「そこに見える蚊」という観念によって本物の確定できると認めたとしても、それも負けだ。なぜって、「本物の蚊」によって「蚊の観念」を説明しようとしているのに、その「本物の蚊」を「蚊の観念」によって説明していることになって、完全に循環論法になってしまうからだ。

ちなみに、観念を抱くまでの図式が、この本には載っていて、

本物の対象X→感覚器官(眼とか耳)の反応→Xの観念

ということだそうです。つまり、

観念とは、私たちの心の中にある、ありとあらゆる内容のことなんだ。

ということらしい。観念とは、知覚した際に想起される事物ということか?

それにしても、「観念」と「実物」が違うというのは、なるほどとも思うが、腑に落ちないというところもある。そもそも、我々が「ある」と言っているのは、知覚したそのもの、つまり「実物」そのものでは?という思いがぬぐえない。しかし、著者いわく、それは視覚内容であり、つまり観念であるという。、知覚し、経験したことは実物、とは言えないのかあ。

カントも「純粋理性批判3」(光文社古典新訳文庫)の中で、このようなことを言っている。

経験とは知覚の総合であるが、この総合が知覚そのもののうちに含まれているものではなく、(以下省略)

やはり、知覚内容そのものが実物、とは言えなそうだ。ちなみに、ここで言っている「経験」とは、さっきから言っている「観念」ととらえてもよさそうかな?

う~ん、なかなか難しい!そして、なんといっても、考え方が面白い!ふだん、僕たちが当たり前だと〈思って〉知覚していた「実物」は、じつは脳に”うつし出された”ものと絶対に同じであるとは言えない、という考えが。

また、明日以降も読んでいこうと思う。

 

では、また次回!