「分析的な判断」と「総合的な判断」―『純粋理性批判』

一人読書会

今回読んだ本;純粋理性批判1(光文社古典新訳文庫)

今回読んだ箇所;p.31-37(段落;011-013), p.294-297


さっそく、本文から引用。

主語と述語の関係について語っているすべての判断において、主語と述語の関係と しては二種類の関係が可能である(中略)一つは述語Bが主語Aのうちにあり、Bという概念がこのAという概念のうちに(隠れた形で)すでに含まれて いる場合であり、もう一つはBという概念はまったくAという概念の外にあり、たんにこの概念に結びつけられているだけの場合である。最初の場合をわたしは分析的な 判断と呼び、第二の場合を総合的な判断と呼ぶ。

今回僕が読んだところの内容は、これにすべて凝縮されています。

 

といっても、これだけではあまりイメージがつかめないと思いますので、解説を読んだりして僕が考えたことを述べていきます。

 

「総合的な判断」とは?

 

これが、「総合的な判断」のイメージ図です。AとBは互いに独立しており、B(述語)はA(主語)に意味的に付け加わった感じです。

 

 

具体例として、「物体は重い」という命題を考えてみます。この「物体」という主語の性質を表す「重い」という述語は、前もって知っていたことではなく、物体を持ってたときに感じる「重いなあ」という経験からきているものです。

そしてその「重い」というものは、すべての物体によるものではなく、個々の物体によります。じっさい、ボーリングの球をもったら「おもたい!」となりますが、発泡スチロールをもったら「うわっ、かるっ!」となります。

 

つまり、「重い」という述語は、「物体」に独立して後付されたということで、「総合的な判断」と呼ぶのです。

 

「分析的な判断」とは?

これが、僕の考えた「分析的な判断」のイメージ図です。先ほどとは違い、Aという主語の概念には、もうすでにBという述語の概念が含まれているのです。

 

具体例として、「すべての物体には広がりをもつ」という命題を考えてみます。

「物体」という主語を考えれば、外からの知識(経験など)を必要とせずに、自ずと「広がりがある」ということは明らかです。

したがって、「すべての物体には広がりをもつ」という命題は、分析的な判断といえるのです。

 

なお、この具体例は、本文そのものを用いました。

そして僕は、「え、物体が広がりを持つことも、生まれてから「見る」という経験をしたからわかったんじゃないの?」という疑問をいだいてしまいました・・・。

 

このへん、どうなんでしょうか?

とりあえず、分からないので先に進めることにします。

 

 

では、また次回!